【先の「崩壊!!政党政治(その一)」では、次回に、具体的政策の検証を行うことを予定しましたが、今回も基本問題の続きを取り上げました】
(十)、ケインズとチャーチルの逸話
伊東光晴 京都大学名誉教授著「ケインズ」(岩波新書)に、興味ある次のような話が記述されています。
第二次世界大戦中、イギリスの首相チャーチルは、海を渡ってルーズベルトと会見しました。
こうしたある時、チャーチルは、一通の手紙を、J・M・ケインズに送ったそうです。
そこには、
「わたくしは、ルーズベルトと会っていると、しだいにあなたの考えに近づくのを覚えます」と、書かれていたそうです。
当時、ある政治的経緯から、チャーチルとケインズの間には深い溝があったのです。
しかし、ルーズベルト自身が、ニュー・ディール政策を推進し、その周りには、ケインズ理論の支持者が集まっていた、と言われていました。
そうしたことに加えて、ケインズが、行き掛り(※)を捨てて、進んで戦争経済の立案に力を貸している労を多として、チャーチルは、前述のような手紙を送ったのだろう、と、伊東光晴・京大名誉教授は、記しておられます。
ところが、
ケインズの返書は、
「わたしの考えに近づかれたとのことですが、残念なことにわたしは今考えを変えたばかりです。」と、いうものであった、といわれています。
これに対して、多くの名言を残した、あのチャーチルのことですから、負けずに次のように言ったそうです。
「同じ質問を七人の経済学者に発した。ところが、得られた答えはみなちがい、八つであった。しかもそのうち二つはケインズからであった。」と。
(十一)、ケインズの立場とその影響
こうした、ケインズとチャーチルとの確執の原因は、政党と政策をめぐる問題でした。(※)
ケインズは、一貫して「自由党」を公然と支持し、自由党を通じて自らの経済理論とそれに基づく政策の実現を目指しました。若い頃、自由党から立候補した友人の選挙応援もしていました。
しかし、ケインズは、自らの政界進出を考えたわけではなかったようです。
一方、チャーチルは、保守党から自由党に移りましたが、自由党の将来に見切りを付けて、保守党に復帰しています。
そのことが、ケインズのチャーチル嫌いの原因だったようです。
ケインズは、大学で学んだ後、文官試験に合格し、インド省に勤務しています。
第一次世界大戦の終了後、大蔵省の主席代表として平和会議に出席しましたが、その地位を辞して、平和条約に対する峻烈な批判を発表しました。
それが、「平和の経済的帰結」という著書で、ケインズのビジョンを鮮明に記したものと言われています。
1924年の選挙における自由党の衰退を境に、イギリスの議会は、保守党と労働党による二大政党へと進み、ケインズは、自分の政策を託す政党を失ったのでした。
けれども、ケインズは、自分の政策を信じ、他の政党も、必ず、賛同するようになる、と考えていました。
事実、ケインズは、その後、近代経済学の創始者と呼ばれ、自由社会の各国政府の金融・財政・経済政策に多大の影響を与え、その成果をもたらしたことは、歴史の証明するところです。
(十二)、政治と学者の関係の考察
ケインズの消費性向と有効需要の原理、乗数理論を中心とした具体的な政策提言が、いくつかの前提をおいた上で、今なお各国政府の政策決定に有用であることを指摘しておきたい、と、思います。
もちろん、消費性向と有効需要原理にしても、現在の経済構造と流通革命の下で、その有効性は薄れていることも事実です。
ここでは、この検証は置いておくことにします。
ケインズは、政府への提言、或いは、自らの言論機関を通じて、自らの政策を主張し続けました。
ケインズの主張の原点は、あくまでも母国イギリスのためでしたが、それを念頭に、国際経済の在り方に、積極的に取組みました。
そうして、アメリカとの交渉を続け、アメリカ側に譲歩しつつも、自らの経済政策を、1944年に、国際通貨基金と国際復興開発銀行を軸とするブレトンウッズ協定として結実させたのでした。
この交渉中に、ケインズは、軽い心臓発作に見舞われました。
ケインズは、1946年、この二つの国際金融機関の総裁に任命されました。
しかし、その直後、ケインズに死がおとずれたのでした。
私が、この小論で、ケインズにいささか過剰に触れたのは、ケインズが、その卓越した学識と信念を、あくまでも、政党を通じ、或は、言論で世に問い、また、実務に官吏として取組んだことを述べたかったからです。
ケインズが、もし、一人の無能な宰相の懐に入り込んで、自らも政治家となって、自分の経済財政理論だけで、イギリスの全政策を誘導し、決定し、実現したとすれば、イギリスの議会政治は、どうなっていたでしょう。
(十三)、日本の政治危機とは
政治の魔力は、野心が野望を生み、権力に権益が発生するところにあります。
そうして、権力の醍醐味は、果てしないのです。
さらに、その精神の中核に、愛国心が全くなければ、時に、結果として、政治家は、売国奴となりかねません。
日本の政治は、いま、その危機の真っ直中に置かれ、与党・野党の不甲斐なさが、その危機に拍車をかけています。
およそ「学問」と呼ばれるものは、一つの原理、或は、一つの法則が発見され、理論が構築されると、それを発展させることはあっても、自ら反対の法則を述べることは皆無と言っていいでしょう。
その典型が、数学であって、世界的に新たな数学の方程式、法則を発見した数学者(概ね二十歳代から三十歳前半迄)は、残りの人生は、教育者として、後継者の育成に当たる以外に、新たにすることは何もない。と、いわれています。
私は、この説に、些か違和感を覚えます。
数学や物理学に関しては、(証明という手続を経るのですから)ほぼ納得しますが、とくに人文科学の分野では、事情は異なります。
数学の世界では、”1+1=2”を覆す答は存在し得ません。
しかし、先に述べたケインズの乗数理論のように、
”1+1≧2”もあり得るのですから、経済学の世界においては、いかに数学を駆使しても、答は一個ではないのです。
(十四)、族議員の誕生とその功罪
そこで、人文科学の分野が、学問として怖いところは、自らの理論に対する絶対的否定の証明が無い限り、自分の説にこだわり続けることが、一定期間、可能だ、という点です。
自分の学問の世界だけでなら、一部の人々を惑わす害毒に止まりますが、国の政策決定に関わるとなると、被害は甚大です。
いま、日本の政治で、そのことが現実の問題となっているのです。
それは、経済・財政・金融政策に止まらず、社会保障政策、教育政策、食糧政策、国土政策、外交・防衛政策など国政全般に及んでいるのです。
いまや、いわゆる「族議員」という名称が、あたかも、悪の代名詞、「利権との癒着」を体現する言葉となってしまいました。
事実、長い年月の間に、政策が、利権の温床になった分野が存在するようになったことも、否定できません。
しかし、本来、「族議員」の誕生には、別の意味があったのです。
「族議員」とは、巨大な官僚機構を、政治が動かすために、政策を構想し、立案し、立法にまでもっていくために、官僚以上の知識を蓄積し、官僚を説得する力を持つ努力をした「議員の集まりだった」のです。
それが、利権集団化した分野では、官僚の力を、国民のために活かすことより、官僚と結んで、利権を漁る全国ネットを構築することになったのです。
(十五)、学者による政治支配
小泉内閣の成立によって状況は一変しました。
前述の、族議員と官僚の結託による、政治支配という土壌を背景として、総理大臣を文楽の人形のように、動かす、学問の衣を着た怪物を、誕生させてしまったのです。
この怪物は、族議員の悪をも凌駕して、政党政治を形骸化させています。
もし、この怪物が、外国資本と結託している、とすれば、恐るべきことです。
このような疑念は、小泉政権の内政政策について、節目節目で、ブッシュ政権が歓迎の声明を出すところからも窺えるのです。
現に、つい最近(2005年3月初旬)も、「小泉総理の郵政民営化を歓迎する」と、ブッシュ政権の高官が述べています。
この事実は、なにを意味するのでしょうか。(未完)。