[はじめに]
この一文を「安倍政権と小泉政治の呪縛」と題したのは、安倍首相が、小泉政権の五年半の期間を通じて、自民党幹事長代理、幹事長、官房長官、と、一貫してその中核にあって、政治家として小泉政権の功罪を共有しているからです。
したがって、安倍政権は、小泉政権の負の体質と政策から脱しきれない、と考えるからです。
現に、安倍総理が初めて行った施政方針演説においても、明らかに小泉政治の残滓を引きずって、安倍政権の独自性を出せず、辛うじて、小泉政治が敢えて避けてきた「教育問題」と「憲法改正」を謳っています。
結局、安倍政権の目指す「国造り」は、「美しい日本」という具体性のない極めて情緒的な目標に止まっています。
背伸びも出来ない安倍政権
就任以来、安倍総理は、口を開けば自らのリーダーシップを強調し、「自分が決める」と殊更発言されます。
実は、この発言事態が異常なことなのです。
なぜなら、日本の最高責任者である内閣総理大臣が国政のすべてに責任を持ち、権限を持っているのは当たり前のことです。
当たり前のことを、わざわざ念を押すと、国民の多くは、「安倍総理にはリーダーシップが無いのだな」と思ってしまいます。
このことは、与党とか野党の立場を超えて、日本のために好ましい情況ではありません。
国益にも反することです。
この傾向の極めつけが、中川秀直自民党幹事長の発言でした。
曰く、「閣僚は総理にもっと敬意を払うべきだ」とか「閣僚懇談の場での私語が多い」など、首相の前で閣僚が緊張感もなく、気軽に振る舞っていることを彷彿とさせる情景を、公的な場で語っています。
政権与党で第二位の権力を持つ人物の発言とは、私の常識では考えられません。
このような発言は、総理と与党幹事長二人だけが知る、門外不出の会話でなければいけないのです。
ところが、野党にいる私が、中川幹事長の発言は、「日本のために良くない」と案じているのが馬鹿げていた、と思わせる言葉が、今度は、当の安倍総理から出たのです。
毎日新聞の報ずるところによると、安倍総理は、中川幹事長の発言の直後、外部の方に、「閣議は緊張感をもってやっている」と語っているのです。
一国の総理大臣の言葉としては、経験不足というより、不見識というべきでしょう。
恥の上塗りとはこのことです。
このように、政治の基本に無知で、自らの重責と発言の重さを自覚していない人達によって、官邸と与党の中枢が占められていることは、恐るべきことです。
小泉劇場政治とは
小泉政治を劇場型とマスコミは評したが、観客動員という点で、その指摘は正しかったのでしょう。
ここで忘れてならないことは、小泉劇場を盛り上げたのは、当のマスコミだった、ということです。
政権側は、国民が政治に参加した、と思いたかったでしょうが、実は、これまでにない演出そのものに興味を持った観客だったのです。
しかし、本来政治は、ある意味で長編のドラマです。
ドラマには、当然結末があります。
しかし、国民の多くは、政治というドラマが長編であるため、その結末までをじっくり観る辛抱に欠けるところがあることは否めないでしょう。
情報が溢れ、価値観が多様化し、局面が目まぐるしく変わり、社会全体としての目標が明確でない現状では、観客は、「長編である、ことと、結論が直ちに出てこない事柄は苦手」なのでしょう。
この様な風潮を背景に、国民は、むしろ政治の寸劇に興味を示すのは、一般的に当然の傾向でしょう。
その寸劇が面白ければ、当然、喝采が起こります。
俗な政治家にとって、国民の喝采ほど心地よいものはないでしょう。
かくして、政権を握った政党、権力を取り巻く政治家の集団が、面白い寸劇の脚本づくりと演出のために、その権力を総動員することになります。
政治の本質の変質
ここに至って、政治は、その長期目標を後回しにして、寸劇の寄せ集めへと変貌します。
曰く、「鬼面、人を嚇す」「一言政治」「はぐらかし」「激昂と平静の組合わせ」「特定の事柄に拘る頑固さ」「非常識を事も無げに言放つ」等々。
その政治の実態には、ドラマの結末はおろか、一貫した筋書さえ存在しなくても一向に構わない、ということになってしまいます。
その瞬間、その一瞬だけの興味や痛快さだけで国民は満足なのだ、と、結局は、彼らは国民を侮っているのです。
この小泉政治に手を貸したマスコミや経済界の首脳や一部の学者の罪も、また、極めて重いものがあります。
もっとも、この風潮が許された根源には、「どうせ誰がやっても大したことは出来ないのだから!」という、国民の政治への諦めがあるのでしょう。
このような土壌を醸成してしまった政党政治の責任を、私も含めて強く自覚し、反省しなければなりません。
小泉政治の宴の後
このように、寸劇に終始した五年半の長期政権が幕を降ろした後で、そう遠くない時期に、国民の多くは、小泉政治が通り過ぎた跡地に立って唖然とするでしょう。
「あの狂気にも似た政権」はなんだったのだろう、と、既に感じておられる方も多いのではないか、と思います。
もし、不幸なことに、国民の多くが、唖然とすることさえも忘れてしまっているとすれば、この日本は、確実に国家の崩壊という危機に見舞われるでしょう。
(続く)